毎朝水やりをするおばあちゃん
新しい勤務先までの道は、住宅街の小さな路地を抜ける。
そこに、毎朝必ず顔を見せてくれるおばあちゃんがいた。
白髪をきちんと結び、薄紫のエプロンをつけて、軒先で植木鉢に水をあげている。
最初は軽く会釈を交わすだけだったけれど、何日も通ううちに「今日もお仕事?頑張ってね」「夜は雨が降るらしいわよ」と、
ひとことふたこと、声をかけてくれるようになった。
毎日がしんどかった。
いわゆるブラック企業で、残業続きに怒鳴られる日々。
足取りは重く、泣きそうになる朝もあった。
でも、このおばあちゃんの声が、ほんの少し救いだった。
「今日は仕事、やめときなさい」
その朝はとくにひどかった。
ろくに寝られず、目の下にクマをつくりながら歩いていたとき、あのおばあちゃんがふと手を止めた。
「あなた、ひどい顔してるわよ。今日はね、仕事なんか行かずに、うちでお茶でも飲んでいきなさい」
唐突だった。
でも、その優しい目を見た瞬間、心がほどけた。
「……今日はいいか」と、私は会社に連絡もせず、黙ってそのまま招かれるように玄関をくぐった。
出された緑茶とおせんべいは素朴で、あたたかくて、涙が出そうになった。
おばあちゃんは多くを語らなかった。
ただ「よく頑張ったね」と言ってくれた。
昼過ぎ、腰を上げて駅へ向かおうとしたとき、スマホが何件も通知を鳴らし始めた。
会社のグループLINEにニュースのリンクが貼られていた。
爆発事故。
ガス漏れが原因で、オフィスの一部が吹き飛んだらしい。
窓は割れ、何人かは救急搬送されたという。
ゾッとした。
あのまま出勤していたら、私はその場にいた。確実に。
お礼を言いたくて
事故から数週間が経ち、結局、私はそのまま会社を辞めた。
心身を立て直しながら、ふと思ったのは、あの日のおばあちゃんのことだった。
あの人のおかげで、私は助かったんじゃないか——
そう思って、久しぶりに朝の道を歩いた。
でも。
あの家の前に植えられていたはずの鉢植えは、倒れて干からびていた。
玄関の戸は傷み、窓ガラスは煤け、雑草がのびていた。
どう見ても、人が住んでいる気配はなかった。
ゴミ捨て場で袋をまとめていた近所のおじさんに聞いてみた。
「すみません、あそこのおばあちゃんって……」
「ああ? あそこ、もう10年は空き家だよ。前に住んでたの、ひとり暮らしのおばあさんだったけど、亡くなったらしい。もう誰も住んでないよ」
息が詰まった。
あの日、お茶を出してくれた手。あの声。あたたかかった気配。
——じゃあ、私は誰に助けられたんだろう。
今でも思う。
あの朝の選択が、私の命を救ってくれたと。
そしてたぶん、あの家の奥では今も、誰かが花に水をやっているのかもしれない。
※この物語はフィクションです。
※記事に使用している画像はイメージです。

◆斎 透(さい とおる)
noteにて短編小説を執筆中の、犬と暮らすアラサー女子です。
やるせない夜にそっと寄り添うような文章をお届けしています。
幼い頃から、オカルト好きな母と叔母の影響で、不思議な話に夢中に。
「誰でも一つは、背中がひんやりする話を持っている」をモットーに、
ゾッとするけど、どこか温度のある物語を綴っています。
美容やキラキラした話題に疲れた夜、よければ一編、覗いてみてくださいね。
●note:https://note.com/sai_to_ru
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