深夜の貸切温泉
リゾートバイトで働き始めて三週間。
海沿いの小さな旅館はオーナー夫妻とおばちゃん二人、それに僕だけのこぢんまりとした職場だった。
夜の仕事が終わると、従業員は自由に温泉を使っていい決まりになっている。
オーナー夫妻は自宅で入浴するし、おばちゃんたちはいつも早く帰るので、深夜の男湯は僕一人の貸切状態だった。
その夜も脱衣室の鍵をかけ、浴場に足を踏み入れた。湯気がこもり、白い曇りが鏡を覆っている。
誰にも邪魔されずに広い浴槽を独り占めできる、この瞬間が密かな楽しみだった。
鏡の奥で
頭を洗っていると、視界の端に黒い影がよぎった。
「誰か、呼びに来た?」
反射的に振り返ったが、脱衣室の扉は閉まったまま。
鍵をかけたのは自分だ。客のはずはない。
気のせいかと鏡に向き直り、泡を流そうとしたとき、鏡の中に“何か”が映った。
背後を横切る人影。だが振り返ると誰もいない。
落ち着こうと深呼吸し、再び視線を鏡に戻した瞬間、胸の奥が凍りついた。
曇ったガラスの奥に、誰かが立っているのだ。
湯気の向こうにぼんやり浮かぶ人影。
数秒のうちに一人、二人と数が増えていき、浴槽の方へ吸い寄せられるように移動していく。
映るはずのないもの
振り返った。浴槽には誰もいない。
お湯の表面は静まり返り、湯気だけが揺れている。
だが鏡を見ると、そこには確かに“いた”。
湯船の中に、十人ほどの人影がぎゅうぎゅうに押し込められている。
全員が顔を伏せ、肩を寄せ合い、押し黙って湯に沈んでいる。
曇りを拭おうとしても手が震えて動かない。
見間違えではない。鏡に映る彼らの肩が、お湯の揺れに合わせてかすかに上下しているのがはっきり見えるのだ。
恐怖に突き動かされ、タオルを掴むとそのまま浴場を飛び出した。
脱衣室の電気も、持ってきた荷物もそのままに、裸足で部屋まで駆け戻った。
それ以来、旅館の温泉には一度も入っていない。
従業員が自由に使っていいはずの男湯──今もあの鏡の中には、あの夜と同じように誰かが身を寄せて沈んでいる気がしてならない。
※この物語はフィクションです。
※記事に使用している画像はイメージです。

◆斎 透(さい とおる)
noteにて短編小説を執筆中の、犬と暮らすアラサー女子です。
やるせない夜にそっと寄り添うような文章をお届けしています。
幼い頃から、オカルト好きな母と叔母の影響で、不思議な話に夢中に。
「誰でも一つは、背中がひんやりする話を持っている」をモットーに、
ゾッとするけど、どこか温度のある物語を綴っています。
美容やキラキラした話題に疲れた夜、よければ一編、覗いてみてくださいね。
●note:https://note.com/sai_to_ru
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