静かな団地の暮らし
10年近く住んでいる団地は、昔ながらのつくりだけれども、住民は穏やかで、住み心地はそう悪くない。
両隣とも顔見知りだ。
右隣は、腰の曲がったおばあちゃんがひとりで暮らしている。
毎朝ベランダで花に水をやる姿を見かける。
一方、左隣は、50代くらいの夫婦。
朝と夜に軽く挨拶を交わす程度だが、いつも感じがよくて、安心できる人たちだった。
この団地には子どもが少ない。
しかし、夕方になると、左隣の部屋からにぎやかな笑い声が聞こえてきた。
「元気な子だなあ」
最初はテレビの音が漏れているのかと思っていた。
しかし、どう聞いても子どもが走り回る音や、はしゃぐ声が混じっている。
毎日同じ時間、同じような音。
だが、なぜか子どもの姿は見かけない。
玄関先で会うのはいつも夫婦だけだった。
聞いてはいけない質問
ある日、ゴミ捨て場で左隣の奥さんと出くわした。
「いつもお子さんの声が聞こえて、元気だなあって思っていました」
軽い雑談のつもりだった。
ん?
奥さんの様子がおかしい……。
左隣の奥さんは、数秒間沈黙した。
そして、重い沈黙を破り、こう答えた。
「……うち、子どもいないんですよ。夫婦ふたりだけです」
「えっ……?」
思わず声が漏れた。
「そ、そうなんですね……」と慌ててごまかし、その場を離れたけれど、胸のあたりがずっとざわついていた。
じゃあ、毎日私が耳にしている、あの声と足音は——?
夕方のあの時間、あの部屋には、誰がいるというのか。
音が止むとき
気になって、次の日の夕方、窓を少しだけ開けて耳を澄ましてみた。
やっぱり聞こえる。
足音、笑い声、ドタドタと駆け回るような音。
夕日で赤く染まる頃、不意にすべての音がぴたりと止まった。
その直後、壁のすぐ向こうから、かすれたような声が聞こえた。
「……いるの、しってるよ」
ゾッとして私は立ち上がり、思わずカーテンを閉めた。
それ以来、左隣の部屋は不気味なほど静かになった。
そして、あの夫婦も突然いなくなった。
転居のお知らせもなければ、引っ越しのトラックを見た記憶もない。
今も、ときどきあの声が、壁の向こうから聞こえてくる気がする。
まるで、こちらの反応を試すかのように――。
空が赤くなる前に、カーテンを閉めなければ。
また、聞こえてしまうかもしれない。
もう誰も住んでいないはずの、あの部屋から、楽しそうな笑い声が。
※この物語はフィクションです。
※記事に使用している画像はイメージです。

◆斎 透(さい とおる)
noteにて短編小説を執筆中の、犬と暮らすアラサー女子です。
やるせない夜にそっと寄り添うような文章をお届けしています。
幼い頃から、オカルト好きな母と叔母の影響で、不思議な話に夢中に。
「誰でも一つは、背中がひんやりする話を持っている」をモットーに、
ゾッとするけど、どこか温度のある物語を綴っています。
美容やキラキラした話題に疲れた夜、よければ一編、覗いてみてくださいね。
●note:https://note.com/sai_to_ru
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