ベランダ越しの会話
「引っ越し、したばかりなんですか?」
夜、ベランダで洗濯物を取り込んでいると、ふいに声をかけられた。
隣のベランダとの間にある、すりガラス越しに人の気配。姿は見えないが、20代くらいの若い女性の声だった。
「そうです。先週からです。挨拶もせず、すみません」
「ああ、やっぱり。見かけない人だなって思って」
すりガラス越しに、聴こえた彼女の声。
彼女は、よく話す人だった。
ベランダに洗濯を干すとき、取り込むとき、どこのスーパーが安いとか、このマンションは夏に虫がわくとか、たわいもない雑談を交わす。
私は「隣人さん」と彼女を呼ぶようになった。名前は知らない。姿も見たことはない。
それでも、なんとなく親しみを感じていた。
気のせい?多すぎる違和感
ある夜のこと。
「昨日、音がしてましたよね?」と彼女が言った。
「え?」
「22時くらい。何度もドンドンって」
私は考える。昨日は仕事で遅くなり、帰宅したのは23時を回っていた。そんな音は聞いていない。
「……私じゃないと思います」
「あ、そうなんですね。じゃあ、上の人かな」
それきり、その夜はすぐに彼女の声も消えた。
けれど、それを境に――少しずつ、おかしなことが増えていった。
洗濯物が一枚だけ消えたり、ベランダに誰かの足跡のような黒い跡がついていたり。
“隣人さん”にそれを話すと、「ああ、それ、うちにもありました」と言うだけで、話題を変える。
深く追及する様子はなかった。
そして、ある日。
契約ぶりにオーナーを見かけたので、ふと聞いてみた。
「隣の部屋って、どんな人が住んでいるんですか?」
オーナーは怪訝な顔をして言った。
「いえ?お隣は空き部屋ですよ。去年からずっと」
……空き部屋?
一瞬、意味がわからなかった。
「でも、毎晩話してますよ。ベランダで。声も、ちゃんと聞こえます」
「それは……おかしいな。
あそこ、内見しても本当に決まらないんですよ。
電気も通ってないんじゃないかな、今」
予想外の反応に、鳥肌が立つ。
部屋に戻って、震える手でベランダのガラス戸を閉め、鍵をかけた。
「聞いちゃったんですね」
ガラス越しに、彼女の声が大きく聞こえた。
「管理人さんに、聞いちゃったんだ」
低く、落ち着いた声だった。今までとは、少し違う響き。
女の声に混じって、どこか、乾いた笑いが混じっていたのがやけに不気味だ。
「……誰?」
「隣人ですよ。ずっと、隣にいたじゃないですか」
ドン、とガラス戸が叩かれる。
背筋が凍る音だった。
翌朝。警察に通報したが、当然、何も出てこなかった。
隣の部屋には、誰も住んでいないという報告。
あれから、私はなるべくベランダに出ないようにしている。
でも――。
壁がコンコンと叩かれる。
彼女が言っていた、22時すぎ。
私はすぐに鍵がかかっていることを確かめる。
たまに、「ねえ、また話そうよ」
彼女の明るい声が、聞こえる気がする……。
※この物語はフィクションです。
※記事に使用している画像はイメージです。

◆斎 透(さい とおる)
noteにて短編小説を執筆中の、犬と暮らすアラサー女子です。
やるせない夜にそっと寄り添うような文章をお届けしています。
幼い頃から、オカルト好きな母と叔母の影響で、不思議な話に夢中に。
「誰でも一つは、背中がひんやりする話を持っている」をモットーに、
ゾッとするけど、どこか温度のある物語を綴っています。
美容やキラキラした話題に疲れた夜、よければ一編、覗いてみてくださいね。
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