引っ越し初日
念願の一人暮らしだった。
古いが家賃は安く、六畳の畳部屋に小さなキッチン、駅から徒歩十数分。
築四十年ということを除けば、悪くない条件のアパートだ。
ただ一つ気になるのは、壁についている年季の入ったエアコン。不動産屋も「古いがまだ使えます」と言っていたが、送風口の金属は錆び、リモコンも反応が鈍い。
夏はまだ遠いから、生活が落ち着いたら考えようと思い、荷解きを開始することにした。
初日。夜中に目が覚めたとき、部屋の空気がかすかに揺れていることに気づく。
「……風?」
エアコンの電源は入れていない。
それなのに、エアコンの吹き出し口から低い音とともに、ぬるい風のようなものが頬を撫でた。
壊れているのかと思ったが、コンセントは抜けている。
畳の下
数日経ってもその現象は止まなかった。
夜になると必ず風が吹き、部屋の空気は重く湿り気を帯びる。
まるで生き物の吐息が漂っているようで、眠りが浅くなる。
気味が悪くなり、夜中、エアコンの前に立って確かめてみた。
吹き出し口に耳を近づけると、冷風ではなく生ぬるい“息”が頬をなでる。鼻先に、どこか腐ったような匂いまで混じっていた。
だが、それだけではなかった。
畳の上に座ると、今度は足元から同じような風が吹いてくるのがわかったのだ。
「……下?」
畳をめくると、黒ずんだ板の隙間からも呼吸のような空気が漏れている。
覗き込んでも暗闇が広がるばかりで、底は見えない。まるで部屋そのものが息をしているかのようだ。
恐ろしくなって畳を戻し、怖い気分を拭うべくコンビニに向かうため部屋を出ようとしたが、ドアがびくともしない。
鍵は開いているはずなのに、何かに押さえつけられているようだった。
「やめてくれよ……」
心臓が早鐘を打つ。
息のような風は次第に強くなり、耳元で誰かが囁くような音が混じり始めた。
この部屋の“主”
エアコンの吹き出し口からは湿った風が吹き出し、畳の隙間からも“息”が噴き上がっている。
空気が渦を巻き、重く、粘つくような感覚が足首を撫でた。
「……誰か、いるのか?」
振り向いた先に、それはいた。
戻したはずの畳の隙間から、白く細い指が一本、また一本と伸びてきていた。
関節が逆に曲がり、這い上がるようにして畳の上へと出てくる。
次第に腕、肩、顔……、それは細すぎる上半身だった。
目は空洞のように真っ黒で、口だけが開いて“スゥ、スゥ”と音を立てている。
エアコンの風は、そいつの吐息だった。畳の下から吹き出す息も、すべてそいつの呼吸。
「ここは、俺の部屋だ……」
声が確かに聞こえた。その瞬間、足がすくみ、視界が暗くなった。
――目を覚ますと、朝になっていた。
ドアは開いており、昨夜の出来事は夢のようにも思えた。
だが畳の隙間は、なぜか一枚だけわずかに盛り上がっている。
耳を近づけると、かすかな“スゥ……”という呼吸音が、今も続いていた。
※この物語はフィクションです。
※記事に使用している画像はイメージです。

◆斎 透(さい とおる)
noteにて短編小説を執筆中の、犬と暮らすアラサー女子です。
やるせない夜にそっと寄り添うような文章をお届けしています。
幼い頃から、オカルト好きな母と叔母の影響で、不思議な話に夢中に。
「誰でも一つは、背中がひんやりする話を持っている」をモットーに、
ゾッとするけど、どこか温度のある物語を綴っています。
美容やキラキラした話題に疲れた夜、よければ一編、覗いてみてくださいね。
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