忘れ物
予備校生だった頃の話です。
その日、いつも通り家を出て電車で時間割を確認しようとしたら、スマホを忘れたことに気づきました。
自宅に戻ったら1限に間に合いません。だから、しかたなくそのまま予備校へ向かったんです。
着いてしまえばなんとかなると思いましたが、2限の終わりにお弁当まで忘れてきたことに気づきました。
夜まで授業なのに、お弁当なしはきつい。
受付の先生に、「すみません、家に電話したいんですけど、電話を貸してもらえませんか」と頼んでみましたが、生徒には貸せない決まりだそうです。
「そこの公園に公衆電話があるから、そこ行ってきてくれる?」
いつも素通りしていましたが、言われてみれば電話ボックスがあったなと。
じゃあ、ちょっと行ってきますと受付に声をかけて校舎を出ました。
公衆電話
家に電話したら、出たのはおばあちゃんでした。
「ああ、お弁当?持って行ってあげるから、予備校で待ってなさい」
いつもののんびりした口調で言ってくれて、ちょっとほっとしました。
その時です。
コンコン、とガラスを叩く音がしました。
見ると、電話ボックスの外に五歳くらいの女の子が立っています。
「ごめんね、おばあちゃん。後が詰まってるから切るね」
受話器を置こうとしたら、急におばあちゃんが言うんです。
「まだ切らないで!」
びっくりして手が止まりました。
「そこから出たらいかん」
いつものおばあちゃんからは想像できないくらい、強い言い方でした。
何が起きてるのかわからないまま、私は受話器を持ったまま固まってしまいます。
「かわって」
外の女の子は、いつまでも私が電話しているからしびれをきらしたんでしょう。
バン、バン、と両手でガラスを叩き始めます。
この女の子、なにかおかしい……。
小さな手のひらを何度も打ちつけながら、こちらになにか言っているようです。
でもガラス越しだから、声は聞こえません。
口の動きははっきり見えました。
「か」「わ」「っ」
私が思わずその子の口元に目を凝らした瞬間、女の子の声が耳元ではっきり聞こえたんです。
「かわって! かわって! いたいの、かわって!」
その先の記憶がありません。
気がついたら、予備校の事務室の長椅子に寝かされていました。
「なかなか戻ってこないから見に行ったら、公衆電話のところで倒れてたんだよ」
受付の先生がほっとした様子で言いました。
「スマホとお弁当、おばあさまが届けてくださったよ」
「えっ?おばあちゃん来たんですか」
「そうそう。それで、変だなって公園に見に行ったの」
「ああ、そうだ。途中で電話切れちゃったから、お金足りなくなったのかもって心配してたよ」
今は忘れ物に気づいたら、絶対に家まで取りに戻ることにしています。
あの電話ボックスに入るより遅刻するほうが、ずっとマシなので。
※この物語はフィクションです。
※この記事に使用している画像はイメージです。

◆味醂
子どもの頃から怖い話が好きで、ホラー小説やネット怪談など、文章作品を中心に親しんできました。
映像作品の痛そうな表現や急に驚かせる演出は少し苦手ですが、想像がふくらむ怖さや、日常の違和感が少しずつ不穏さを増していくような話に惹かれます。
読んだあとふとした瞬間に思い出してしまうような“あとから効いてくる怖さ”を大切にしています。
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