いつもの人
先日、地元に帰省した時の話です。
就職してからは忙しくて、かなり久しぶりの実家でした。
母と台所で話しながら晩ごはんの支度を手伝っていた時、玄関の方で戸を叩く音がします。
インターホンじゃなくて、引き戸を叩く音です。
地元の方だと、おじいちゃんおばあちゃんたちはまだそうやって戸を叩くんですよ。田舎なので。
私は手を止めて、母のほうを見ました。
「誰か来たよ」
「あー、いつもの人。開けなくていいよ」
母は包丁を動かしたまま、気にもしていないふうに言います。
いつもの人。
そんな言い方をされても、私には心当たりがありません。
母はそれ以上何も言わず、煮物の鍋の火加減を見ています。
近所の人か、親戚の誰かだろうかと思いました。
少しして、また玄関の戸を叩く音。
そのままにしておくのも落ち着かなくて、私は台所から廊下へ出ました。
玄関のすりガラスの向こうに立っていたのは、背の高い、男の人の影でした。
声なき訪問者
「どちらさまですか」
声をかけても返事はありません。
でも、すりガラス越しの影が、わずかにこちらへ近づいた気がしました。
「……おかあさーん?」
「んー? ほっといたら帰るってば」
不安になって呼びかけた私に、母は台所から顔だけ出して、面倒そうに言います。
……そうはいっても、声をかけてしまった手前、開けないわけにもいかないじゃないですか。
少し迷いましたが、戸を開けたんです。
外には誰もいませんでした。
玄関の前のコンクリートも、門のところも、夕方の薄暗い庭も、しんとしていて、人の気配はありません。
でも、風もないのに、すぐ脇を何かがすっと通ったような感じがして、ぞくっとしました。
「あーあ、入ってきちゃった」
振り向くと、母は私ではなく、廊下の奥のほうを見ていました。
その顔には驚いたとか怒ったとかではなく、ただ、本当にうんざりしたような色が浮かんでいたのを覚えています。
「何それ。何が?」
そう聞いても、母はすぐには答えませんでした。
居座るだれか
夕食のあと、母が押し入れから布団を出しながら言いました。
「今日あんた、客間使えないよ。ばあちゃんの部屋に布団敷いて」
「え? なんで?」
母は少しだけ黙って、布団を抱えたまま独り言のように呟きました。
「……開けたらだめだから」
その時、客間のほうから、カタン、と小さな音がして。
客間に置かれている、長年誰も使っていない焼き物の重たい灰皿を、なぜか思い出しました。
父も母も、その音には何も反応しません。
聞こえていないのか、聞こえていて無視しているのか、私にはわかりませんでした。
その夜、私は何年か前に亡くなった祖母が使っていた部屋に布団を敷きました。
夜中に一度だけ目が覚めた時、廊下の向こうから、低い咳払いが聞こえた気がします。
家族の誰の声でもありませんでした。
次の日の朝、客間の襖はきちんと閉まっていて、何もなかったみたいに、いつもの実家に戻っていました。
※この物語はフィクションです。
※この記事に使用している画像はイメージです。

◆味醂
子どもの頃から怖い話が好きで、ホラー小説やネット怪談など、文章作品を中心に親しんできました。
映像作品の痛そうな表現や急に驚かせる演出は少し苦手ですが、想像がふくらむ怖さや、日常の違和感が少しずつ不穏さを増していくような話に惹かれます。
読んだあとふとした瞬間に思い出してしまうような“あとから効いてくる怖さ”を大切にしています。
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