隣人
一人暮らしを始めた頃の話です。
住んでいたのは、駅から歩いて10分くらいの古いマンションでした。
部屋は5階で、エレベーターを降りて廊下のいちばん奥から2つ目。
隣の部屋には、30代くらいの男性が住んでいました。
引っ越しの挨拶はしていませんでしたが、平日の朝はよく顔を合わせていました。
私が家を出るのがだいたい7時半。
ちょうどその頃、隣のドアも開くんです。
「おはようございます」
最初に挨拶をしたのがどちらからだったかは覚えていません。
それからは会えば軽く頭を下げるくらいの関係になりました。
スーツを着て、黒い鞄を持った、ごく普通の会社員という感じの人です。
帰宅時間は違うようで、夜に会ったことは一度もありませんでした。
空室?
住み始めて半年くらい経った頃です。
仕事から帰ると、隣の部屋の前に管理会社の人がいました。
ドアを開けたまま、室内を確認しているようです。
何かあったのかなと思いながら通り過ぎようとすると、向こうから声をかけられました。
「すみません、503の方ですよね」
「はい」
「ちょっとお聞きしたいんですけど、この部屋に誰か出入りしてるの、見たことあります?」
妙な聞き方だなと思いました。
「たまに挨拶くらいはしますけど……」
そう答えると、管理会社の人が首を傾げました。
「ここ、空室なんですよ」
意味がわかりませんでした。
「いや、男の人住んでますよね。朝よく会いますけど」
「いつ頃からですか?」
「私が引っ越してきた頃からなので、半年くらい……」
そこで相手の表情が変わりました。
「この部屋、少なくとも去年から誰にも貸してないです」
冗談を言っているようには見えませんでした。
部屋の中をちらっと見ると、家具は何もありません。
カーテンすらついていない、がらんとした部屋でした。
翌朝
その夜は、ほとんど眠れませんでした。
何か勘違いしているんだと思おうとしました。
別の部屋の人だったのかもしれない。
たまたま隣室の前にいただけで、私が勝手にそこから出てきたと思い込んでいたのかも。
朝になっても、いつもの時間に家を出る気にはなれませんでした。
7時20分。
まだ早い。
7時25分。
あと少し。
7時半。
壁越しに、かすかな音がしました。
隣の部屋からです。
“ガチャ”
玄関のドアが開く音。
足音が廊下へ出てきます。
そして、いつものように私の部屋の前を通り過ぎていきました。
私は息を殺して、玄関の内側に立ちます。
足音が遠ざかってから、ドアスコープを覗きました。
廊下には誰もいません。
それから30分ほど待って、ようやく家を出ました。
数か月後、隣には若い男性が引っ越してきて、今度はちゃんと引っ越しの挨拶にも来てくれました。
ただ、その人が住み始めてから、ときどき朝7時半になると隣からドアの開く音が二回聞こえます。
一度目に誰が出ているのかは、確認していません。
※この物語はフィクションです。
※この記事に使用している画像はイメージです。

◆味醂
子どもの頃から怖い話が好きで、ホラー小説やネット怪談など、文章作品を中心に親しんできました。
映像作品の痛そうな表現や急に驚かせる演出は少し苦手ですが、想像がふくらむ怖さや、日常の違和感が少しずつ不穏さを増していくような話に惹かれます。
読んだあとふとした瞬間に思い出してしまうような“あとから効いてくる怖さ”を大切にしています。
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