それは疲れたある日のこと
私がまだ学生だった頃の話です。
その日は塾の講習があまりに難しく、疲れ切っていました。
ちょうど夕暮れ時。
少しぼうっとしながら駅へ向かっていると、葬式看板が目に入りました。
友人が「駅前の大きな屋敷の意地悪じいさんが亡くなったらしいよ」と噂していたことを思い出し、ああこれかあ、と通り過ぎました。
すれ違い様に意地悪をしたり、下品な声掛けをしたりするような人で、塾生はその訃報に驚きながらもどこかで喜んでいたのです。
辺りにはうっすらと線香の香り。
そしてなぜか改札の音程がいつもと違う気がしました。
夕方、人が溢れかえるはずの駅のホームは、その日だけ誰もいません。
「ラッキーだな」と思いながら待っていると、下り線の電車がやってきました。
電車の中
電車はとても空いていました。乗客がほんの数人なのです。
「おかしいな。この時間はいつも混んでいるのに」
そう思いながらドア横の座席に座ろうとすると、ふと違和感を覚えました。
乗客がみんな俯いて、怯えているような表情をしているのです。
入院着やパジャマを着ていて、スーツの人もいるけれど、空気が重苦しい。
電車の中はツンと鉄のにおいがしました。
不思議に思った次の瞬間、腕を強くつかまれました。
驚いて振り向くと、険しい顔をした、浴衣姿のおじいさんがいました。
「オイ、お前生きているんだろう!ワシと変われ!」
唾を飛ばしながら怒鳴ってきたのは、お屋敷の意地悪じいさんでした。
「ワシは行きたくない!死にたくない!」
叫ぶおじいさんの口が、何者かの手によって塞がれます。
その手は、電車の壁やつり革から伸びていました。
電車の天井にはいくつもの目が浮かんで、ぎょろりとおじいさんを睨みつけています。
長い爪が、叫ぶおじいさんの口を引き裂いて鉄の匂いがしました。
痛がって転んだおじいさんが、そこら中から生えた手に絡めとられていきます。
“プルルルル”
電車の発車ベルが鳴ります。
その音で我に返り、転がるようにして電車の外に出ました。
扉が閉まると、電車はおじいさんの叫び声を乗せたままホームを去っていきます。
おじいさんに掴まれた腕が、まだ痛んでいました。
今思えば、あれは紛れもない恐怖体験でした。
いなくなったおじいさん
その次の日、妙な噂を聞きました。
例のおじいさんのご遺体が消えたそうです。
空になった布団には、おじいさんのものではない長い爪が一本落ちていたとか……。
数年経ってあの古いホームは取り壊されてしまいました。
ただ今でもたまに、新しい駅のホームで鉄の匂いが強く鼻を掠めます。
きっと“そういう”車が利用する、駅なのでしょう。
※この物語はフィクションです。
※記事に使用している画像はイメージです。
※表示価格は記事執筆時点の価格です。現在の価格については各サイトでご確認ください。





