元婚約者
2025年10月18日、土曜日の午後2時頃。
私は恋人の直也と東京都世田谷区の住宅街を歩いていました。
交際して半年。
優しい人だと思っていましたが、以前に元婚約者の話を聞いたときだけ妙な引っかかりを覚えたんです。
「別れてからもしつこくてさ。最後は勝手に死んだんだよ。こっちが迷惑した」
彼は人が亡くなった話を、笑いながらしていたのです。
私は何も言えず、それきり話題にしませんでした。
踏切の女
買い物を終え、直也のマンションへ戻る途中、京王線の踏切に差しかかりました。
車も通れる幅のある踏切で、普段は歩行者や自転車も多く行き交っています。
ところが、その日は誰もいませんでした。
車も通らず、遠くの住宅街からも物音ひとつ聞こえません。
警報機が鳴り、遮断機が下ります。
その向こうに、白いワンピースの女が立っていました。
濡れたような黒髪が顔を覆い、片方の肩が不自然に落ちています。
右膝は内側に折れ、つま先だけが横を向いていました。
「ねえ、あの人……」
直也は女を見たまま、唇を震わせました。
「美咲……?」
電車が通り過ぎます。
最後の車両が消えると、女は線路の上に横たわっていました。
警報機はまだ鳴り続けています。
這う女
女の右手が、砂利の上を探るように動きました。
指が枕木の角をつかみます。
女はその手に力を込め、上半身をほんの少し前へ引きずりました。
“ずりっ”
後ろに伸びた両脚は動きません。
ねじれた足先が砂利を引っかき、乾いた音を立てます。
女はもう一度、腕だけで身体を引きずりました。
“ずりっ、ずりっ”
髪の間から顔が覗きました。
頬の片側がひしゃげ、口が斜めに開いています。
開いた唇の奥から、息に絡まるような声が漏れました。
「……ま、だ……」
私は逃げなければと思いました。
でも、足の裏が地面に貼りついたように動きません。
女の指が砂利をつかむたび、目だけがその動きを追ってしまいます。
直也がかすれた声で言いました。
「来るわけないだろ……、もう終わったんだよ」
女が顔を上げました。
「……う、そ……」
直也は突然、私の背中を突き飛ばしました。
私は遮断機の脇に倒れ、彼は一人で走り出します。
その足首に、女の黒髪が巻きつきました。
5年前の約束
直也は遮断機の下をくぐるように、線路へ引きずり込まれました。
女は彼の足をつかみ、地面をずりずりと進みます。
直也がもがくほど、女の身体が近づいていきました。
「助けてくれ!」
ようやく身体が動いた私は、道路の端まで這って逃げます。
女は直也の胸元に顔を寄せました。
「……むか、え……」
遠くから、反対方向の電車のライトが近づいてきました。
女は直也を抱きしめたまま、微動だにしません。
私は耳をふさぎ、電車が通り過ぎるのを待つことしかできませんでした。
やがて警報機が止むと、女の姿は消え、線路には動かなくなった直也だけが残されていたのです。
数日後、私は彼の古い知人から、5年前の出来事を聞きました。
5年前、直也は婚約者の美咲さんに隠れて浮気をしていました。
浮気が発覚すると、彼は美咲さんに一方的に別れを告げたそうです。
それでも最後に一度だけ会いたいと願う美咲さんに、直也は「迎えに行く」と約束しました。
けれど、彼がその約束を果たすことはありませんでした。
美咲さんは、その夜、同じ踏切で命を絶ったといいます。
私は今も、女の声を覚えています。
あれは恨み言だったのか、それとも、ようやく迎えが来たと思った声だったのでしょうか。
※この物語はフィクションです。
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