予約のない夜と、古びた旅館
地方の夏祭りを見るために、ひとり旅に出た。
全国的に有名なその祭りは、想像以上に観光客で賑わっていて、会場近くのホテルはすべて満室だった。
事前に予約したはずのビジネスホテルが「予約が取れていません」と冷たく言い放ち、スマホで検索する間にもどんどん時間は過ぎていく。
ほとほと疲れた私は、細い路地にぽつんと灯る“民宿”の看板にすがるように入っていった。
玄関の引き戸を開けると、女将さんが出てきた。
「予約は……?」
「していません。でも、どこにも泊まれなくて……
一晩だけでも、なんとかなりませんか?」
必死に頼み込むと、女将さんはしばらく黙った後、小さくため息をついた。
「じゃあ……昔、使っていた部屋でよければ。
今は誰も泊めていないの。
条件があるけど、それでもいいなら」
足を出さないで。絶対に。
通されたのは、古びた和室だった。
畳は少し色褪せ、壁紙の一部は剥がれている。
天井の照明だけがぽつんと灯っていた。
布団は丁寧に敷かれていたし、ひと晩だけなら問題なさそうだった。
女将さんは、布団のそばで念を押した。
「いい?深夜1時までには必ず眠ること。
それから、どんなに暑くても布団から足を出さないで。
……絶対に、お願いしますよ」
なぜですか、と聞こうとして、やめた。
ここまで世話になっておいて、文句を言える立場ではなかった。
湯をもらい、着替えて横になる。時計を見ると、0:52。
「あと8分か……」とつぶやきながら、スマホの明かりを落とし、目を閉じた。
1時すぎ、“それ”はやってくる
パキッ。
部屋のどこかで音がした。時計を見ると1:17。
いつの間にか、寝てしまっていたらしい。
体を動かそうとしたが、まったく動かない。
金縛りだ。
それよりも恐ろしいのは、部屋の端から「ザリ……ザリ……」と、布を引きずるような音が近づいてくることだ。
息が止まりそうになる。
布団の下、足元あたりでその音は止まった。
その直後、足の甲に“何か”が触れた。
濡れた手のひらのような感触が、ゆっくり、布団越しにこちらの形をなぞってくる。
叫びたくても声が出ない。
“それ”は、布団の端をめくろうとしているようだった。
ガリ……ガリ……と、爪が布を掴む音がしていた。
そのとき、外の廊下で「トンッ」と足音が響いた。
女将さんだ。戸が開いて、すっと気配が消えた。
金縛りが解け、私はすぐに足を布団の奥へ押し込み、毛布を顔までかぶった。
朝。女将さんは何も言わなかった。ただ一言。
「無事だったようで、よかったわ」
※この物語はフィクションです。
※記事に使用している画像はイメージです。

◆斎 透(さい とおる)
noteにて短編小説を執筆中の、犬と暮らすアラサー女子です。
やるせない夜にそっと寄り添うような文章をお届けしています。
幼い頃から、オカルト好きな母と叔母の影響で、不思議な話に夢中に。
「誰でも一つは、背中がひんやりする話を持っている」をモットーに、
ゾッとするけど、どこか温度のある物語を綴っています。
美容やキラキラした話題に疲れた夜、よければ一編、覗いてみてくださいね。
●note:https://note.com/sai_to_ru
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