古い旅館
出張の帰り、以前から気になっていた老舗旅館に一泊することにした。
明治時代に創業し、かの偉人も宿泊したという由緒ある宿。木の香りが漂う館内は手入れが行き届き、古さを感じさせない。
温泉は評判通りの泉質で、湯上がりの体は心地よく火照っていた。満足した僕は部屋に戻り、布団に身を沈めた。
深夜、ふと目が覚めた。少しトイレに行きたくなったのだ。
部屋の外に出ると、廊下はしんと静まり返っている。
最低限の明かりは灯っているものの、築百年を超える木造の建物は、夜になるとさすがに不気味さが増す。
階段を降りて共有のトイレへ向かい、用を済ませる。再び階段を上がり、部屋に戻ろうとしたそのとき……。
階段の足音
“ギシ、ギシ”
木が軋む音が響いた。誰かが階段を上ってきているのかと思ったが、周囲に人の気配はない。
胸の奥がざわつく。気のせいだと自分に言い聞かせ、早足で部屋へ戻った。
襖を開けると、部屋は静まり返っている。布団に潜りこみ、眠りに落ちかけたそのとき。
“ギシ、ギシ……”
さっきと同じ音が、階段を上がってくる。
それは部屋の前で止まり、襖の向こうに「何か」が立っている気配を残して、やがて消えた。
安堵も束の間、再び音が始まる。何度も階段を上がってきては、襖の前で止まる。
“カサ……”
やがて手が襖に触れるような音がした。誰かがそこにいる。
部屋にいる『僕』
このままでは眠れない。
意を決して布団から飛び出し、勢いよく襖を開けた。
廊下には誰もいない。階段の下も静まり返り、風の一つも吹いていなかった。
ほっと息をつき、部屋へ戻ろうとしたとき……
“スッ”
音を立てて襖が目の前で閉まろうとする。
襖が閉まりかけた、その瞬間、僕は見てしまった。
部屋の中央に、自分が立っていたのだ。
血走った目でこちらを睨み、唇をゆっくりと吊り上げて笑っている。そいつは僕とまったく同じ顔、同じ寝巻き、同じ姿をしていた。
驚きと恐怖で固まる中、襖はしっかり閉まり、僕は廊下に取り残された。
“ギシ、ギシ”
再び階段の軋む音が響く。何かが、また上がってきている。
部屋の中にいる“僕”と、階段から登ってくる“なにか”――。
どちらが本物なのか、もうそれすらわからない。
気がつけば朝だった。手のひらも、鏡に映る顔も、いつも通りの自分。あれはただの悪夢だったのだろう。
チェックアウトの手続きを済ませ、旅館の外へ出たとき、ふと胸がざわついた。
ああ、よかった。数十年ぶりに、この廊下から出られた。
※この物語はフィクションです。
※記事に使用している画像はイメージです。

◆斎 透(さい とおる)
noteにて短編小説を執筆中の、犬と暮らすアラサー女子です。
やるせない夜にそっと寄り添うような文章をお届けしています。
幼い頃から、オカルト好きな母と叔母の影響で、不思議な話に夢中に。
「誰でも一つは、背中がひんやりする話を持っている」をモットーに、
ゾッとするけど、どこか温度のある物語を綴っています。
美容やキラキラした話題に疲れた夜、よければ一編、覗いてみてくださいね。
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