婚約の挨拶
婚約者を初めて実家に連れて行った時のことです。
婚約の挨拶は和やかな雰囲気で済み、泊まりの予定だったので彼と父は仲良くお酒も飲んで。
この人と家族になるんだなあって、うれしくなったのを覚えています。
母が私の部屋に布団を敷いてくれて、彼に「一番風呂どうぞ」とお風呂をすすめました。
浴室の老婆
久しぶりの自室で寛いでいたら、彼が思ったより早くお風呂から出てきました。
しかし彼は髪もろくに乾かさないまま、落ち着かない様子。
「どうしたの?」
「あのさ、さっき食事の時にいなかったけど、ここん家っておばあちゃんいる?」
私の祖母はもう何年も前に亡くなっています。
その日、家にいたのは両親と私だけ。そう答えると、彼は眉をひそめました。
湯船に浸かっている時、すりガラスの向こうに人影が立っていたのだそうです。
最初は家族の誰かだと思って、「すみません、お風呂いただいてます」と声をかけたと。
しかし、向こうから返ってきた言葉が聞き取れない。
「なんですか?」と聞いても、彼には聞き取れない、よく分からない言葉が返ってきたといいます。
「方言ぽかったかなあ?なんか怒ってるみたいな声だったし、こえーと思って」
「すみません、もう出ますから」とお湯を出ようとすると浴室の戸が少し開いて、こちらを覗く老婆と目が合って。
じっと彼の顔を見て、さっきよりはっきりした声で、こう言ったそうです。
「とりつくろうたっちゃわかるぞ」
私が何も言えないでいると、彼がイライラした様子でため息をつきました。
「ああいう人いるなら先に言っといてよ」
「え?」
「あのおばあちゃんも式とか呼ぶの?無理なんだけど」
……そんな言い方なくないですか?
もし本当に私の家族が見に行ったんだとしたら失礼ですし。
知らないおばあちゃんにお風呂を覗かれたらしい、という話は一応両親にも共有しました。
実家なのに緊張しながらお風呂に入る羽目になりましたが、彼以外はおかしな目にあうこともありませんでした。
忠告
帰りの新幹線でも「あのおばあちゃんはなんだったんだろう」という話になりました。
本当に実家には両親しかいないし、そのおばあちゃんを見たというのも彼だけです。
お酒も飲んでいたし、夢でも見ていたんじゃないかと言ったのですが、彼は引き下がりません。
「なんでそんな風に隠すの?ふつうにボケてるんじゃなくてなんかの障害ある人?」
「いや、本当に知らないし見てもいないんだって」
「大事なことじゃん。子どもに遺伝とかしたらおまえ責任とれるの?」
なんてことを言うんだこいつはと思いました。
私の話をとことん信用しないのもですし、居もしない子どものことをそんな風に言われるのも本当に腹が立って、もう大げんかです。
婚約はそのまま破談になりました。
元々、店員さんへの言い方が妙にきつかったり、結婚したら仕事はどうするのかと何度も確認されたり、気になることはあったので。
それが最後のひと押しになった感じです。
「とりつくろうたっちゃわかるぞ」
熊本弁だと思います。祖母は熊本の出身でした。
「取り繕ってもわかるぞ」って、今思えば、本当に亡くなった祖母が忠告しに来てくれたのかもしれませんね。
※この物語はフィクションです。
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◆味醂
子どもの頃から怖い話が好きで、ホラー小説やネット怪談など、文章作品を中心に親しんできました。
映像作品の痛そうな表現や急に驚かせる演出は少し苦手ですが、想像がふくらむ怖さや、日常の違和感が少しずつ不穏さを増していくような話に惹かれます。
読んだあとふとした瞬間に思い出してしまうような“あとから効いてくる怖さ”を大切にしています。
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