夜の廊下
残業していたときの話です。
会社のフロアの奥に、食堂とか書庫とか更衣室とか、共用の部屋が並んでいる廊下があるんです。
昼間は人の出入りがあるんですけど、夜になるとほとんど真っ暗で、用がある人しか通らない場所。
その日も、みんな先に帰ってしまって、フロアには私しか残っていませんでした。
資料を取りに行くついでにその廊下を歩いていたら、奥のほうから話し声が聞こえたんです。
男女何人かで、ひそひそ話しているみたいな声でした。
あれ、まだ誰か残ってたんだ、と思いました。
ちょっと安心したくらいです。夜の会社って、やたら静かで落ち着かないので。
声は食堂のあたりから聞こえていました。
でも、おかしいんです。
食堂の電気、消えてるんですよ。誰もいないんです。
気のせいだったのかなと思って、その時はそのまま自席に戻りました。
誰もいない部屋
でもコピー室をに行った帰りとか、トイレに立った時とか、あの廊下を通るたびに、どこかの部屋から小さな話し声がするんです。
近くまで行くと、ぴたりと静かになる。
ドアを開けても、やっぱり誰もいない。
だんだん気味が悪くなってきて、なるべく夜はあの廊下に近づかないようにしていました。
「いるでしょう」
それでも月末の忙しい日に、また一人で遅くまで残ることになったんです。
その日は書庫に置いてある昨年のファイルがどうしても必要で、しかたなく奥の廊下へ向かいました。
歩いている途中で、また声が聞こえます。
書庫の中です。
前よりはっきり聞こえました。
何人かが、低い声で会話しているんです。
「今日も遅いね」
「さっきコピー二回やり直してたよ」
足が止まりました。
今夜の私のことだ。
息をひそめて、ドアの前で立ち尽くしました。
中の声は続いています。
「気づいたかな」
「まだじゃない?」
「でも、ほら」
少し間があって、ひとりが言いました。
「そこに、いるでしょう」
開けるつもりなんてなかったのに、反射的にドアノブに手が伸びました。
勢いよく開けた書庫の中には、やっぱり誰もいませんでした。
無人の棚、消えた蛍光灯、閉まった窓。
いつも通りの書庫です。
私が立っている廊下のほうで、かすかに笑うような声がしました。
誰もいません。
そのまま荷物もほとんど置きっぱなしで、私は逃げるようにフロアを出ました。
翌朝、警備の人にそれとなく「昨夜、誰が残ってました?」と聞いてみたんですけど、最終退館は私で、その前2時間は残っているたのは私1人だったと。
気のせい、疲れすぎ、といわれたらそれまでなんですけど。
ただ、その日、自席に戻って書類を片づけていた時に、前日の夜間点検表が目に入ったんです。
最終確認者の欄に、見覚えのない筆跡で、私の名字が書かれていました。
私、その用紙には触っていません。
それ以来、どれだけ仕事が残っていても、一人で最後まで会社に残ることはやめました。
※この物語はフィクションです。
※この記事に使用している画像はイメージです。

◆味醂
子どもの頃から怖い話が好きで、ホラー小説やネット怪談など、文章作品を中心に親しんできました。
映像作品の痛そうな表現や急に驚かせる演出は少し苦手ですが、想像がふくらむ怖さや、日常の違和感が少しずつ不穏さを増していくような話に惹かれます。
読んだあとふとした瞬間に思い出してしまうような“あとから効いてくる怖さ”を大切にしています。
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