残業帰り
その日は仕事が長引いて、乗り換えもタイミング悪くて、いつもよりちょっと遅い電車に乗ったんです。
車内には会社帰りっぽい人が何人かいて、座席もぽつぽつ埋まっていました。
私もドアの近くの座席に座って、ぼんやり窓の外を見ていました。
何駅か過ぎるうちに、乗っていた人たちはひとり、またひとりと降りていきます。
気づけば、車両には私1人しか残っていませんでした。
この電車、この時間だとこんなに空いてるんだ。
そんなことを考えながら、ふとドア横の細い窓が目に入りました。
窓に映る影
向かいの座席に誰かが座っているのが映っていました。
黒っぽい服の人影。
反射的に振り向きましたが、向かいの座席には誰もいません。それどころか、やっぱり車両には私1人だけです。
光の加減で、窓におかしな影が見えたのかも。
でもなんだか怖くなって、もう見ないようにしようと思って正面を向き直したんです。
でも、気になってしまうんですよね。
少ししてまた横目でガラスを見ると、さっきと同じように黒く人影が映っていました。
また前を向く。やっぱり誰もいない。
次の駅に着いて、ドアが開いて、閉まって、電車がまた動き出しました。
誰も乗ってきません。
よせばいいのに、また窓を見てしまいます。
その瞬間、背筋が冷えました。
人影が立ち上がっている。
そんなふうに見えました。
駅をひとつ過ぎるたび、窓を横目で覗くたび、ガラスの中の人影だけが少しずつ近づいてくるんです。
降りる駅が近づくころには、その人影はもう私の前に立ちふさがっているように見えました。
「右側のドアが開きます」
よろよろと立ち上がって、ドアの前に立ちました。
振り向いてはいけない。窓を見てもいけない。
そこにいたもの
ぎゅっと目を瞑っている私のすぐ耳元で、小さな声がしました。
「先に降りるね」
女性の声でした。
電車が止まってドアが開きます。
私はほとんど転げるみたいにホームへ飛び出しました。
よろめいた拍子に肩がなにかに、誰かにぶつかった気がしました。
「すみません」
反射的に謝罪が口をついて出て。
目の端に黒くて長い女性の髪が過ぎって、すぐに消えました。
私、その日は仕事で髪をまとめていましたし、前の週に美容室でカラーも入れ直したばかりでした。
私の髪じゃないんです。絶対に。
それからも、何度か同じ時間に電車に乗りましたが、あんなに空いてることはありません。
彼女にも、会うことはありませんでした。
※この物語はフィクションです。
※この記事に使用している画像はイメージです。

◆味醂
子どもの頃から怖い話が好きで、ホラー小説やネット怪談など、文章作品を中心に親しんできました。
映像作品の痛そうな表現や急に驚かせる演出は少し苦手ですが、想像がふくらむ怖さや、日常の違和感が少しずつ不穏さを増していくような話に惹かれます。
読んだあとふとした瞬間に思い出してしまうような“あとから効いてくる怖さ”を大切にしています。
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